11月のページ

以前、掲示板に「三枝さんって、昔アイドルだったんですか?」
っていうのがありました。
アイドルって言うほどのものではなかったけれど
当然若い時がありました。
今の若い人は、私が深夜番組「ヤング・タウン」で現れ
テレビ番組に進出していったことを知らないと思いますので、ちょっと照れくさいながらも若き日を見て頂くのと同時に、長年にわたり応援してくださった、「落語家三枝」というより「桂三枝の全て」を応援してくださった方々に感謝する気持ちを込めて、若き日を、「桂三枝アイドル時代?」を振り返りたいと思います。

1967年。10月。
入門した明くる年。
師匠文枝から毎日放送へ行くように言われました。
「何か番組で、若い芸人をオーディションしているらしい。お前も数のうちや、行ってこい!」
当時、今のように若いお笑い芸人がほとんどいませんでした。
どうなるものか分からない世界に、誰も入ってこなかったのです。
若い落語家数人、若手の漫才師数組、
みんな顔見知りという感じの世界でした。
とにかく4,5分ネタをやれと言われて、
訳が分からないまま毎日放送に行くと
毎日放送局の第一スタジオに、若い客が2,30人いました。
そこで、私は大抵若手の落語家がやるような小話ではなく
と言うのも小話をあまり知らなかったので
大学時代、つまり落研、関西大学では「落語大学」という名称でしたが
クラブ活動時代のネタを
学生時代、浪漫亭ちっくと名のっていたころ、よく話していたことを中心に
ネタをつくって、みんなの前で演じました。
それは映画の話だったと思います。
するとWディレクターから
「新鮮やないか」
と思われたみたいです。
古くない。
ただそれだけの理由で、全然芸歴のない若い落語家を抜擢したWディレクターが「桂三枝」を世に出したと言っても良いでしょう。
テレビが全家庭に入ってきた頃、
チャンネル権は大人にあり
子供や若者にはラジオしか占領出来るものがなかったといえましょう。
だから、ラジオは私にとってラッキーなことに
売り出す絶好の機会だったのです。
もちろん深夜番組「ヤング・タウン」はメジャーな番組ではありませんでしたし、それに抜擢されたと行ってもすぐに人気者になった訳でもありません。
どうすれば、良いのか?どうすれば人気者になるのか?
そんなことよりも、与えられた仕事の場をありがたく思い、
懸命にこなすことにしました。

夢中で集まった若い人たちと
いろんなゲームをしたり話したり
コーナーをいっぱい考えました。
少なかったスタジオに
日に日に観客が増え始めました。
けれど深夜の番組に出ている
若い芸人を世間は誰も知りません。
でも
初めは毎週土曜日の
短いコーナーをまかされていたのが
だんだん、長くなっていきました。
ただ、
少しラジオに出ていても
全く無名。
ラジオを聞いている若者に「桂三枝」の名前は少しずつ浸透はしていきましたけれど
みんな顔も知りません。
私にとって
マスコミへの第一歩は貴重な一歩でしたから
とりあえず名前を覚えて貰うべく
考えました。

それは
ラジオの中でギャグを言うことでした。
大人にとっては分からない言葉でも
ラジオを聞いている若者だけが知っている言葉が
流行れば、競って若者は流行に後れまいと
ラジオを聞く
「三枝」という名前を覚える
そう思ったからです。
いろんな言葉を考えました。
たぶん数百は考えたでしょう。
その中に
「いらっしゃーい」もあったのです。
スタジオの中で繰り広げられることは
ラジオですから動きは全く関係ありません
けれど
ラジオから感じられる臨場感で
ぜひ
スタジオに行ってみたい
そんな気持ちにさせるために
ラジオですが必死で動きました。
体を使って表現したのです。

ラジオの常識を覆すものでした。
きっとラジオを聞いていた若者は
何をやっているんだろう
と思ったに違いありません
「それはラジオではつたわらんだろう。ラジオに言葉の切れ目があってはいかん」
と、もしもプロデューサーに言われていたら
私の考えた作戦は成功しなかったでしょう。
若いプロデューサーWさんは
もう定年退職なさいましたが
私のすることをおもしろがってくれました。
もちろんこの時点ではアイドルへの道はまだ遠かったのです。

でも
徐々に格好も付いてきました。
どうすれば、よく見られるか、少し分かっていきました。
面白いことを考えて、考えて、努力したおかげで
完全に若者の間ではラジオでの「桂三枝」が定着しかかっていました。
熱狂的なフアンが増え始めておりました。
熱狂的なフアンは
自分たちの手の届くところにいて欲しい
そんな思いだったと思います。
来る日も来る日も
ラジオの仕事しかなかったのも幸いしました。
ラジオでしっかり
熱狂的なフアンが定着し始めておりました。

この頃
ラジオで街頭に出ても一部の若い人には熱狂的でも大人は誰か分からなかったと思います。
「桂三枝」
と言う名前は
普通に読むと
かつらみえとなり
とても男だとは思って貰えなかったのです。
落語界も低迷しておりました。
落語家が若者から離れていたのです。
ところがラジオで私が落語家だと知ると
みんな落語にも興味を持ちだしたのです。
そんなおり満を持して
テレビの仕事が舞い込んできました。
「ヤングおー・おー」です。
これははっきりいって
ヤングタウンのテレビ版でした。
それは間違いありません。
同じ局の制作でしたから
ここで、一気に火がつくことになるのです

大阪の若者にとっては
ラジオでよく知っている芸人のテレビ登場でした。
一部のフアンからは自分たちのところから離れた寂しさはあったかもわかりません
でも、多くのフアンはわがことのように喜んでくれました。
つまり、みんなとともにテレビに飛び出したといってもよいでしょう
今まで知らない大人たちも
そしてラジオを聴かなかった若者たちも
「桂三枝」を知ったのです。
そして、テレビが普及しだし、若者にもチャンネル権が与えられ出したのです。
私は、しかし、残念ながら芸の上での経験が浅かったので
とにかく元気に楽しくすることを心がけました。
素人芸
と決め付けられたこともありましたが
私はそれはよいほうにと考えました。
素人芸こそ、見ている人に一番近い存在なのですから

テレビでも
ラジオとスタンスは変わりませんでした。
一生懸命やる。
楽しいことを考えて
次から次に
新しいネタをする
素人芸だった私も経験を重ねていったのです。
ネタ帳は真っ黒になりました。
テレビもはじめは苦戦しましたが
ラジオでついたお客さんは離れなかったのです。
そして今では考えられないことですが
若いお笑い芸人、若いミュージシャン。
これは当たり前の結びつきでしたが、年配の演歌の人
映画スター、達が一緒に出ることで
お茶の間の高齢化層も取り込んでいったのです。
ついに爆発するときがきたのです。

男の子も
応援してくれるようになっていったのは
ありがたいことでした。
テレビになった
「ヤングおーおー」
はチケットが手に入らないぐらいの大ヒット番組となりました
今ならひとつヒットすると同じ番組ができてつぶしあいとなるのですが
そうはなりませんでした
各局、自分の局の特徴を出したい
よそのマネはしたくない
そんな心意気がありました。
同じ趣向の番組を作るのではなくて
この爆発した
若い芸人たちをほかの事で使おうと
各局
手を伸ばしかけてきたのです。

写真は「やすし・きよし」さんの漫才が始まって、逃げ出しているところ。
当時消防法がうるさくない時代。
このお客さんの
特に若い人の熱狂ぶりは、今のお笑いブームに負けていないと思います。
いや、このすごさはそれ以上かも分かりません。
それにしても、私の折れそうな、細い足にご注目下さい。
やすしさんよりも痩せていたかも。
やすしさんの勢いある手の振り方。
この二人もこの番組にかけていたというのが分かります。
今の陣内君達よりも、ずっと若かったみんなは若者の間で人気が沸騰していったのでした。

当時カレッジポップスがはやり
細身のズボンが流行でした。
こんな落語家が登場したのですから
落語界は騒然としました。
落語家は着物を着ろ。もっと落語をしろ!
でも
ある先輩から
それは少しマスコミで売れている落語家でしたが、
言われた言葉は忘れられません。
「人の言うことは気にしたらいかん。だれだって、主役が来たらやりたがる。主役が来ない人間が、主役をやっかむのや」
でも、私に対するいろんな批判はあったと思いますが、
一番の批判は
「落語もできん落語家や。服は持っていても着物を持ってない」
そういわれても仕方がありませんでした。
急に売れた私はほとんど、着物を持っていず、
というのも服に比べて遙かに高い着物に手が出ないので
安い服屋で買った
九条商店街で母に買って貰った、上の写真の、ひとつだけの服をいつも着ておりました。

そして、「新婚さんいらっしゃい」が始まったのです。
初めは月亭可朝兄さんとの三人司会でしたが、2ヶ月しかこのトリオは続かず
私だけが残り、梓みちよさんと組んで新たに番組が始まったのです。
ヤングおー・おーや新婚さん
で全国ネットに飛び出した私は急に超多忙になったのです。

「新婚さん」
は一人の伝説のディレクターとの出会いでした。
「てなもんや三度笠」を作った
澤田隆治さん。
私は澤田さんから
「タイトルに君のギャグを使ってよいか?」
ときかれ二つ返事でOKしました。
この、ヤングオーオーをやりながら新婚さんをやったことは
私の芸人人生を決定付けました。
つまり若者中心の番組から大人の番組に移行できたからです。
若者中心だけだと、若い人はすぐに次のものに目がいくからです。
これまで続くとは思いませんでしたが

超多忙になって
人気者になったという実感もないまま
毎日が過ぎてゆきました。
アイドル的に雑誌に載りましたが
そんなアイドルだなんて考える暇もなかったというのが実感です。
たぶん今思えば考える余裕などなかったのでしょう。
だから、チヤホヤされていい気にならなかったのかも知れません。
もちろん、アイドルと言ったって
当時のアイドル歌手だったジュリーに比べれば
比べものにならないものでしたが・・・
この頃何を考えていたのか?と言いますと
「落語家としてどう生きるか」
と言うことでした。
さて、何とか名前はでた。
人気も何となく出てきた。
しかし長続きする盤石なものではないと言うことは
忙しい中で充分、分かっていたのです。
でも、その一方で売り出してくださった皆様のためにも
テレビを始めマスコミの世界で頑張らなくてはなりません。
「桂三枝」の名前をどんなことがあっても死守しなければなりません。
事務所がつきっきりで、女の子に持てるイメージを考えてくれる
訳でもありません。
全て自分で考える。
他のプロダクションと違って
吉本は所属の芸人が多く
すべてに管理すると言うところがないのが
かえってよかったのかも知れません。
ある種、自由に出来たからです。
そうなると自分で、先をどう考えてゆくのか常に冷静に判断をしないといけなかったのです。

「人気は人の気持ち、人の気持ちは移ろいやすい」
大勢の人に囲まれている時
そんな恐怖感がよけいに募りました。
今、いっぱい集まっている人たちが
いつかは、どこか他のところに集まってゆくと
そんな、危機感が常にありました。
ですから今も、いろんな公演に来てくださる
この当時のフアンの皆様はなんと辛抱強い
方達だと思います。
私自身、良いなぁと思う芸能人はコロコロ変わるのですから
興味あることが変わってゆくのは普通だと思います。
テレビのチャンネルだって
じっと同じものを見ている人なんて少ないでしょう。
それを一筋に応援してくださった方は
私にとっては、何にも代え難い宝物です。
とにかくこの頃
「自分は落語家だ」
と言うことだけ忘れないでおこうと思っていました。
しかし
なかなかそれに関われる時間を取られていったのです。

どこにいても、いろんな人に囲まれていました。
極端に他の落語家に比べたら落語に向かい合う時間が少なかったと言えます。
この頃は完全にタレント化していました。
言い換えれば、売れ出して一番幸せである時期が
一番苦悶していた時期でした。

落語の寄席が戦後なくなっていましたから
テレビの仕事をしながらも落語会をやっていました。
これは
大阪梅田の喫茶店で開いていた「ヤング寄席」
他の落語家がみんな着物なのに一人洋服姿が
なんかこの時の仕事ぶりが伺えます。
右横は早世した前林家小染さん。
先日、娘さんが結婚し、祝いに駆けつけた時に
不覚にも小染さんの事を思い、涙してしまいました。
いい男だった。
落語もうまかった。
今生きていれば、
いや、生きていることは難しかったかも知れない。
あれだけお酒を飲んでいれば
でも、惜しい。
悔しい。

とにかくいろんな番組に引っ張り出されました。
左は桂きん枝君。
ありがたいことに名前はどんどん売れていった。
大きな花を胸につけて貰ったが
この花をいつまでも胸につけているとは思わなかった。
さて、時間はないし
落語は出来ないし
若いし、遊びたいし

サインをしながらも
いつまでこうしてサインを求められるのだろう
そんな思いの
毎日だった。
でも、これがアイドル時代だったとしたら
落語家みんなが経験出来ることではないので
こんなありがたい経験はない
サインを求めたこの人達も
今は50代
楽しい青春時代を送って貰えたとしたらこんなにありがたいことはない。
今思えば
やはり
アイドルだったんじゃないかと
そのアイドル時代があったから
もっと芸を身につけよう
みんなにちやほやされたから芸人としての
危機感がもてたといえるでしょう
そしてこのころ
はたから見れば順風満帆
何の苦労も感じられなかったんでしょうが
内心は人気という危なっかしさに眠れぬ日が続きました
でも、
芸人として今
アイドルといわれたことに
うれしく思います
アイドルと呼ばれたから
アイドル脱却を真剣に考えることができました
応援してくださったフアンの皆様に
感謝しつつ
追いかけてくださった皆様のためにも
私はアイドルだったと思いたいです。
そして、お笑い界のアイドル時代は私の勲章でした。
今、落語家として本物を目指すためにも
いい経験ができてよかったと思います。
これは自慢でもなく
私は「お笑い界のアイドル」だったと断言できます。

今回はあえて今の写真は出しません。
自分ではよいように年を重ねたと思いますし
すべての経験が役に立って
落語家として充実しております。
若いこのときと気持ちはまったく変わっておりません。
もちろん過去にすがり付いて生きているわけではありません。
今日の証として、振り返ってみました。
皆さんこれからもよろしく

最後に馬越マネージャー
「皆さん、寒くなりました。風邪にはお気をつけ下さいね。三枝の若い時、私は全く知りません。でも、不思議と年を重ねた今でも、子供みたいに夢ばっかり語っています。たぶん若い時もそうだったと思います。若い日を知りませんが、今でもその頃をうかがい知ることは出来ます。いつも三枝は、どこで年をとったんやろう?又髪の毛を新幹線に忘れてきた。とかいっておりますが、人間は年を重ねるのが当たり前、今、どこへいってもお客様がよくはいるのは、今度は中高年のアイドルになっているからだと思います。物忘れや食べこぼしの多いアイドルですが、メガネをかけていながらメガネを探すアイドルのマネージャーとしてこれからも頑張って行きたいと思いますので、皆さんどうか落語会においでくださいね」

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